2018年、raf00はF1に飽きた。
1990年からF1を観始め、以来予選と決勝の放送は必ずリアルタイム放送を見続けていた。セナが死んだ後もF1への熱は変わらず、ミハエル・シューマッハーのフェラーリが表彰台を2年間にわたって独占し続けた時も腐らず、日本人の有無も特に意に介さず見続けていたが、今年のF1はどうしようもなくつまらないもので、予選を見る機会が減り、決勝すらも録画を早回しして終わるようなレベルにまで落ちた。最終的にはフジテレビNEXTを解約し、DAZNに契約を切り替えたりもした(ら、サッシャの実況は正直楽しかったので、来年はDAZNで視聴したい)。
F1の運営会社やドライバーたち自身が「つまらないF1を何とかしなければならない」と危惧するレベルであるのだから、視聴者としてつまらなさを感じるのは自然なことではあるが、今のF1の退屈さがどんなものになっているかを振り返っておきたい。
■タイヤ性能と燃費レース
F1おいてタイヤがレースの面白さに与える影響は非常に大きく、そしてそれはコントロールが効かないところはある。
タイヤが頑丈であれば性能劣化を気にせずピットストップが形骸化してしまう恐れがあるし、脆すぎてしまうとタイヤ起因のトラブルが続発しすぎてレースにならなくなってしまう。
現在作られているタイヤは劣化しやすいが1ストップが最適な状態で、バランスが悪いとは言えないが1ストップが標準であるために中盤までで無理をしすぎると終盤の性能劣化に困ることになる。
また燃料も問題だ。環境問題への配慮のため現在のF1は途中給油がなく規定の燃料でレースを走り切らなければならないが、フルパワーでレースを走り続けると燃料切れのリスクが発生するため、レース中無理をしない時間を作らないと完走できないようになっている。これによってレース中にバトルが続発した場合、燃料を使いすぎて終盤はクルージングを余儀なくされるシーンが多く見られる。
レース開始から中盤まで怒涛の追い上げを見せたドライバーが終盤は追い上げを諦めてしまうシーンは今年も少なくなかった。
レース序盤から終盤まで全力で走ることができないというのは問題だ。
現在のF1GPはまるで耐久レースのようになってしまっていて、ペースコントロールの巧さがドライバーの能力になりつつある。
こうした環境で得をするのがトップを走るドライバーだ。先頭を走りながらペースをコントロールしておけば燃料・タイヤ共に労わることができるのでレース後半に向けて大いに余力を残すことができる。2位まで上がってきたマシンが近づくと節約したパワーを開放して一気に差を広げるという展開は近年非常に多いし、レース後半のサーキット上でのトップ交代というのは本当に少なくなっている。
先頭を走るドライバーがタイヤと燃料をセーブするためトップドライバーのファステストラップも少ないし、30秒以上の大差をつけることも少ない。
これではレースが盛り上がるはずがない。
■トラブルの少なさ、致命的なトラブル
かつては「リタイヤ0台などめったにお目にかかることができない」ほどF1にはトラブルがつきものだった。
エンジンやギアボックスの故障で順位が目まぐるしく変わり、スタートしたマシンのうち半分が消えていくようなサバイバルレースも頻繁に見られた。これによって予想もしなかったチームがポイントを獲得したり、チャンピオンシップの展開が大きく動くような熱い展開が起きていた。
ご贔屓のドライバーが姿を消してしまうのは寂しいものだし、トラブルによって手に入れるタナバタポイントが偉大であるとは(インディならともかくF1では)言い難いが、ハラハラドキドキしながら見る楽しみがあったことは確かだ。
が、近年のエコなF1ではこうしたトラブルはかなり減っている。一基のPUで複数戦を戦わなければならなず、堅牢な設計が求められるため、1レースあたりのマシントラブルは概ね平均2台程度。その他に時折クラッシュで数台が消えるような展開が多く、全台完走のレースがずいぶん増えた。
トラブルが起きにくいというのは強いチームがどんどんポイントを重ね、弱いチームが上位に上がるチャンスを失うということでもある。
一方で頻繁にトラブルが連発してしまうというのも近年のルールではよろしくない。年間で使えるパーツには限りがあり、規定数を超えて新パーツを投入するとグリッドペナルティを課されるルールになっているが、序盤戦でパーツを壊しまくった場合、後半のどこかで予選グリッド降格ペナルティを受けることになるのが非常にもどかしい。
近年ではマクラーレン・ホンダが特にひどく毎戦最後尾からスタートするような展開も見られた。速さに一切関係なくペナルティを消化しなければならないというのはそりゃあもうつまらない。今年はレッドブルのリカルドなどがこの憂き目に遭っている。
■コースオフのリスク減少
古いサーキットであれば、コーナーをはみ出ると砂が敷き詰められたサンドトラップにつかまり身動きが取れなくなってリタイヤという展開がしばしば見られた。コース脇のウォールも近く、マシンを破損してリタイヤするリスクも今よりもずっと大きかった。
だが、セナの死亡後サーキットの安全性が追及され、コントロールを失いやすいサンドトラップや瞬時にレースが終わるコース脇のウォールは新しいサーキットには用いられなくなってきた。代わって近年のサーキットにはグラベルやアスファルト舗装のランオフエリアが設置され、コースアウトしてもウォールにヒットしにくいような設計がされている。
これは大事なことではあるのだが、コースオフするリスクが大きく下がってしまった。コースを外れて大外を回ってもマシン・タイムを大きく損ねることなくレースに復帰することが可能になってしまっている。これによってレースがずいぶんと雑になってしまったと感じられる。
■テレメトリーの進化
ドライバーの能力差はかつて非常に大きいものだった。
マシンやコースの特性の理解、わずかな走りの違和感からマシンの状況を察知する驚異的な嗅覚によって速さを見せつけてきた。
だが、現在のF1マシンに関する多くのデータはピットが把握しており、サーキットの攻め方も無線によって細かく指示が入る。燃料残量やエンジンの内部温度などからどのエンジンモードに入れるべきか、タイヤの摩耗具合などからレースの残りをどう戦うかも全て指示が入る。
こうなると、現在のF1ドライバーに求められる資質はピットが与える情報をどれだけ走りにフィードバックできるかが重要になってくる。
タイヤのマネジメント能力やオーバーテイク・ブロックのセンスは今なお重要で、ここだけはドライバーの力量差を見ることができるポイントだが、チームの力量差を大きく超えてドライバーの力が発揮されるケースは極めて少なくなっている。
■オーバーテイクのややこしさ
前の車に追いついて、ズバッと抜いていくオーバーテイク。
「オーバーテイクが少なくなった」ということであればつまらなさがシンプルにわかるのだが、今のF1の状況はもう少しややこしい。
KERS/DRSというブースト機能が搭載されて久しく、オーバーテイク自体は昔よりも大きく増加している。追い抜く側が抜かれる側よりも有利になる仕掛けであるため、抜きつ抜かれつの展開自体は昔に比べてはるかに増えている。
これにより、昔はオーバーテイクがまるでできずメチャクチャつまらなかったハンガリーグランプリが名勝負を生み出すサーキットに変貌するなど、面白さも提供してはいる。
のだが。現代F1は空力性能が格段に進歩した結果、マシン後方に大きな乱流を発生させ、後続のマシンに著しく走りにくい影響を与えるようになっている。これによってかつては有効な手段だったスリップストリームが活用しにくく、コーナーの飛び込みで勝負がしにくい状況になっている。
この乱気流は年々悪化しており、2017年は前年に比べて47%オーバーテイク回数が減るほどになっている(16年までがオーバーテイク増えすぎていたという見方もできるが)。
スリップストリームが活用できない状況とDRS/KERSが存在する状況の組み合わせにより、オーバーテイクシーンの中心になったのが「速いマシンが遅いマシンをストレートでズバっと抜いて、そのまま逃げ去る」シーン。技術云々ではなく、マシンそのものの速さが活きる展開だ。
■トップ3チームと下位チームの圧倒的な差
上記までの要素により発生しているのが、トップ3チームとそれ以外の下位チームの大きすぎる格差だ。
予選結果では大体1~6位をトップ3チームが独占しているし、そのうち一人が大きく予選順位を落としたとしてもレース後半にはしっかりとポイント圏内に復帰している。メルセデス・フェラーリの2チームがレッドブル以外のすべてのチームを周回遅れにしてしまうような展開も起こっているし、2018年にトップ3チーム以外のドライバーが表彰台に乗ったのはわずか1回、アゼルバイジャンでのセルジオ・ペレスの3位表彰台だけだ。さらにトップ3チーム以外の5位以内入賞数を数えてもぺレス表彰台を含めてたったの8回。全表彰台の回数のうち8/63という少なさ。
実際メルセデス・フェラーリ・レッドブル以外のチームが優勝したのは2013年開幕戦のロータスルノーの勝利にまで遡らなければならない。
これはさすがにつまらないとしか言えないだろう。
2002年にフェラーリが独走しミハエル・シューマッハが全戦表彰台に乗るという史上最もチャンピオン争いのない年が過去にはあり、記録だけ見ればこの年が最もつまらないと言って差し支えないはずだが、「いつもの3チームだけがレースをしている」という状況に慣れきってしまった2018年の見応えのなさは異常だった。
■デビュー低年齢化に伴う、キャリアの長期化
個人的にジェンソン・バトンやキミ・ライコネン、フェルナンド・アロンソなどのベテランドライバーを好んで応援していたので説得力に欠ける部分はあるが、「強いドライバーのキャリアが伸びすぎた」ことはF1という文化にとってマイナスだと言える。
かつてはモータースポーツの最高峰に辿り着くためにはジュニアフォーミュラ、F3、F3000を経る必要があったが、2000年頃から極端に低年齢化している。その先鞭をつけたのがキミ・ライコネンで、F3すら経験せずフォーミュラ・ルノーを23戦走っただけで2001年にF1でデビューしている。最年少記録は以降多くのドライバーが更新し、マックス・フェルスタッペンの17歳でのF1デビューに至っている(この記録は以後18歳以上でないとライセンスが発給されなくなったため破られることはないが)。
こうしたF1到達年齢の若年化はキャリアの長期化につながる。有能なドライバーが長くF1で活躍するというのは良いことだが、F1で走れるのはたった22人。この限られた枠をベテランが占め続けるのは未来に向けて良いこととは言えない。
実際にF1ドライバーとして及第点の走りをしていた若手がシートを失うケースが何人もいる(これはペイドライバー化がさらに進んでいるという要素も関わってくるが)。
ルクレールのような爆発的な才能は上位チームに引き上げられることになるが、グッドドライバーレベルだと容易にふるい落とされてしまう。GP2などの下位カテゴリで素晴らしい活躍をしたとしても、巨額の持ち込みスポンサーがないか、メルセデスやレッドブルの育成ドライバーでないとチャンスは生まれなくなる。これは未来のF1にとって深刻な問題だ。
■F1の未来はどうなるのか
F1という競技は世界のスポーツの中でもとても不思議な存在だ。
世界の名だたる自動車メーカーがモータースポーツの頂点を獲得するために巨額の費用を投じて研究開発を続ける。コンストラクター(チーム)は広大で巨大な風洞設備を建築し、1周5kmのサーキットで0.1秒を縮めるための空力を追求する。1時間半ほどの車の追いかけっこを年に20回やるためにチームが費やす費用は年間100~300億円。
世界でたった22人のF1ドライバーもすこぶる付きで特異だ。下位カテゴリで驚異的な結果を出した才能の塊であっても、才能だけではF1のシートに座ることができない。億単位のスポンサーを獲得し、これをチームに渡してようやくグリッド後方が定位置のチームに参加できる。
そんな狭き門を突破し22人のライバルを打ち倒すと今度はあらゆるスポーツの中でも最も高額なギャラを手に入れることができる。トップクラスのF1ドライバーが得る収入は年間50億にものぼり、世界のスポーツ選手長者番付の中でも最上位に位置することになる。世界で最も多くの観客を魅了しているサッカーのファンタジスタよりも、欧米の富裕層が愛してやまないテニスやゴルフのチャンピオンよりも、ビジネスとしてのスポーツの最高峰の一つであるバスケットボールの伝説の選手よりも、「世界で一番速く自動車を運転できる人」の価値は高い。
が、その位置付けは今後も盤石であり続けるだろうか。
F1の自動車開発技術は90年代の時点で市販の乗用車に応用できる領域を大きく突破した。速さを求める必要はなく、市販乗用車に求められる技術は低燃費高効率に切り替わっている。F1がKERSを導入した際、持ち込まれたのは市販乗用車のハイブリッドシステムであり、今のF1が市販乗用車に活用できる技術はもはやそう多くはない。
技術的な面では新しく立ち上がったFormula-Eが興味深くはあるが、現状~向こう当面は「最も熱いモータースポーツ」にはなれないだろう。
市販技術への応用を考えずとも、技術の進化は厳しい状況が続いている。「速く、とにかく速く」を目的とした技術開発競争は30年前にすでに終わってしまっている。00年代には「車の速さが人間の耐えられる限界を突破する」という現象も起きている。安全性のためにスピードを抑制するようになったルールの改定も既に四半世紀続いている。現在のF1はあえて遅く走るようにした車の限界を見つけるための開発を行っているに過ぎない。
さらにこれからの市販乗用車が進むべき道は自動運転車だ。自動運転車の究極の理想はドライバーなしでの運転。SAEが定める自動運転技術のレベルは5段階で設定されているが、レベル1の加限速サポートであっても、F1ドライバーの必要性は大きく低下してしまう。「世界一速く自動車を運転できる人」はその意味を失っていくだろう。
FIFAサッカーワールドカップ、近代オリンピックと並んで世界三大スポーツイベントと呼ばれているFIA F1グランプリだが、このスポーツの視聴環境も厳しい。日本もそうだが世界各国でF1グランプリは有料チャンネルで放送されていて、誰もがいつでも見れるイベントではない。新規の視聴者が増えない問題はF1の歴史が長い各国で悩まれている問題だ。
そもそも長年の愛好家たちですら嘆く状況で新規のファンを増やしていけるのか、心からおすすめできるものなのかを考えると…実に頭の痛い話だ。
■2019年に向けて
ここまで書いたことは今年に限った話ではなく、何年も何年も感じ続けてきたことだ。
ただ、2018年は特にこれらの傾向がとくに強く感じられる1年だった。中でもモナコグランプリの惨状は「レース」としては目に余るもので(モナコは昔から大きなトラブルが発生しなければつまらないものではあるものの!)、今のレギュレーションの限界を感じさせるものだった。
四半世紀以上F1を観戦していて、完全にF1に見切りをつけることはないだろうし、いつかなくなってしまうものであればその終わりを見届けたいとも思う。
のだが、2018年のF1は本当に本当に「退屈」だった。
ただ一つ。今年のF1をつまらないと感じながら一つだけ、つまらないつまらないと言いながら決して懐古主義には浸らなかったことだけは、自分を褒めたい。セナプロ時代を懐かしむのは簡単だし今もばっちり記憶しているけれど、それでもF1とは進化そのもの。新しいものは良いもので、F1マシンのフォルムも「新しいものはよりカッコいい」という価値観を割と一貫して持ち続けている。「あの頃は良かった…」というのは趣味として終わりすぎているから。