「努力と才能」論について

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10月は毎日ブログを書く!なんて宣言したにもかかわらず3日しか書いておらず「ブロガーですらなくなってる」raf00です。「新選組!」と「壬生義士伝」と「龍馬伝」を延々観てた10月でした。全部何回も見ている作品にも関わらず、大満足の1ヶ月を過ごしております(反省の色なし)。物語の主人公が変わると人物の見え方が万華鏡のように変わりますね。幕末維新モノ最高!

さて、肩慣らしにちゃちゃっと軽く。

「産まれと才能 > 努力」だと思う人が、ひと昔前より増えていると感じるし、実際「努力が報われない世の中」になってると思う – 自意識高い系男子

インターネット論壇の定番話題である「努力と才能」論、相変わらずブログエントリが上がってくるたびに広く拡散しますね。そして「努力と才能」について大いに論じられるものですが、この話ってぼんやりした話ではどうにもならなくて、特定のゴールありきで語らないとどこにも着地しないよね、と常々思っています。

例えば入門レベルのゴールであれば、「才能があれば一気に次のレベルに進んでいけるが、努力次第でどうにもなる。そこでつまづくのならばそれは明確に努力不足」と言えるでしょうし、世界最上位のゴールであれば「生まれ持った非凡な才能と環境は最低条件。最上位レベルに進むまでの努力においても一度のミスも許されず、他のすべてをかなぐり捨てて努力が必要」となるでしょう。

努力と才能を使って目指すべきゴールが一定のラインを超えれば誰でも達成できるものなのか、人数制限があるものなのかというのも重要です。前者であればじっくりと努力を続けることでいつか達することができるかもしれませんが、後者であれば周囲に才能を持っている人がどれだけいるか、その中でどれだけの才能を持ち努力をすれば良いかはシビアな問題として浮かび上がってきそうです。

「努力と才能」という2つの要素にしても思いをはせる必要はあります。努力と言っても「毎日30分努力する!」というものから「他のあらゆる楽しみをすべてかなぐり捨てて人生を賭ける」レベルまでが存在しますよね。無論才能の有無によって「本人は楽しんでいるつもりだけど、他人にしてみれば努力以外の何物でもない」ようなケースも含めて考える必要はあり。

その上で為末さんのTweetは「ワールドクラスで活躍するために必要なもの」として語られていて、一般社会における「努力すれば報われる」の話とはちっと異なるなと感じられます。
現代は本当に「努力しても報われない」時代なのか、という。
確かに高度成長期のような一本道の「努力」で切り抜けることが難しい世相にはなっていますが、高度成長期にしても「努力して報われた人」が実際に多かったかどうかを考えるとなかなか明るく考えられはしないもの。小中高大学と「学業だけを頑張って、いい会社に入って頑張って」という単純なルートは確かに閉じつつありますが、代わって現代は「自分の向き不向きの判断を早々に考え次のステップの準備をする」時代になってきています。自分探しをする上で有益な情報は圧倒的に増えており、その目的へのアクセスも手段が広がり「自分が努力を向けるべき方向」を探す上では過去類を見ないほどに進化しています。
「努力しても報われない」と一言で片付けてしまいがちですが、戦い方そのものが変わっているということを意識した上で考えるべきでしょう。
もちろん、自分の向き不向きが自分の好みと合致するとは限りません。世界一足が速い「本当はサッカー選手になりたかった」人もいたりしますし、才能を持っている人でもかなわない願いがあったりはします。

あれこれと模索して努力を重ねても最終的に「身の丈に合った諦念」を受け入れる人生になるかもしれませんが、早々にそれを受け入れるのではなく、ある程度自分にどんな才能があるか、どんな戦い方ができるかくらいは前向きに取り掛かってもいいんじゃないかしらね、と感じたりなどしました。

で、ブログとかソーシャルとかの「発信力争い」に関しては「才能と努力」で語られることが少ないねぇ…やたらとそこに結びつけるのを避けるねぇ…と感じているのですが、それはまたいずれ。

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