シロクマブログ精神論に対して、raf00はどのように悩みそしてグズグズなエントリに至ったか。

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いやぁなんとも暑苦しいね。素晴らしく暑苦しい。俺はシロクマ先生のこういう、自意識ソムリエと評されながらも自身が強烈な自意識に呪縛されている様は素晴らしく「プレイヤー」であり、学ぶところは多い。シロクマさんのこういうところが大好きです。
彼こそは純粋なる「テキスト野郎」であり、テキスト野郎の魂の叫びであるからこそ、響く。

[ilink url=”http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130110/p1″]俺のブロガー精神論 – シロクマの屑籠[/ilink]
[ilink url=”http://togetter.com/li/436666″]シロクマ先生が語るブログ論 – Togetter[/ilink]

正直今回の突っ掛けっぷりには困惑するところ大きく、今これを書いている瞬間もこのエントリをどうするか悩んでいます。
あのシロクマ野郎、ブログエントリの引用でもわかるように「なんというか文化的にMOTTAINAI感ある。」という部分を意図的に排除するなど勝手に「ブロガーとして惰弱なことを言っていやがる」イメージをあてはめてキレ芸見せやがってとも感じれば、 そういう足がかりを作ることで、熱く自分のブログ論語れて、損得感情を気にする相手に安全に殴り合いごっこもできて、ブログ興行で村興しかこの野郎!とも感じずにいられません。

あぁしかし、あのエントリで示される「ブログ精神」は魅惑的でテキスト野郎として響くものがあり、反応しなければなりません。反応するからには自分のネット観・ブログ観とは一体いかなるものであるか、どのように接しているのかを正しく洗い直した上で、言葉を選ばなければなりません。

さて、「なんだかんだと書かずにはいられないテキスト野郎」というところでは俺も「テキスト野郎」です。

インターネットに出会った1997年から、俺のネットサーフィンは日記猿人に集中していました。あの(ハックル流に言えば)ゴリゴリした空気と「日記読み(要するにトラバによる論争のようなもの)」の暑さ!様々な属性の人たちがひとつのテーマをああでもないこうでもないと論じ合い、その論調をまた否定し、文章のテクニックを讃え、ネットの雰囲気に苦言を呈しするあの空間の熱量に魅入られ、1998年には自身も日記サイトを立ち上げて、日々日記にならない日記を更新し始めたわけです。その後日記才人と名を変えたアレの終焉とReadMeの勃興から展開したテキストサイトブーム時代も、多くのサイトがテキストを公開する中、──こちらはほとんどまともに認知されないジャンルで──ひっそりとテキストを書いていいます。
その後ネットサービスの会社に入りサービス運営側として「情報と受け手を繋ぐ仕事」にシフトししばらくは個人で書くという行為から離れましたが、低頻度ながらmixiやはてなダイアリーで文章を書いています。そしてTwitterが流行ればTwitterで大量の140文字を垂れ流し、ザ・インタビューが出てくればそこで聞かれてもいないようなテキストを垂れ流す。今このブログを使って文章を書くぞと言いながら、増田に改変ネタを投下する…。俺にとってのインターネットは「書くこと」が切り離せません。

一方で俺は、元フリーライターでもあります。特定の専門分野を持つタイプのライターではなく、雑誌にありがちなレビュー記事や特集記事、記事広告、編集後記付近の雑多なネタコーナーなどを任される、何でも屋的な無記名下っ端ライターでした。長文だけでなく、様々な形式の、様々な用途の「文章」に触れています。本文だけではないキャッチ、キャプションに心血を注ぎ、時に「本文よりも雄弁な16文字」を模索し、時に「わかる人にだけわかる20文字のネタ」を仕込んできました。

俺にとっての文章の楽しみとは「ある文章を書くべきスペースがある時に、その条件や制約に対してどうやりぬくか、どう遊んでやるか」を考えるものであり、「文章という道具を使って、どれだけ人に伝えられるか、どれだけ人の心をあっちこっちに動かせるか」を考え抜くものであります。
そもそも「文章の楽しさに本気で触れた最初のきっかけ」が、小学校のクラスの川柳コンテストでクラス全員が作った川柳を廊下に貼り出し、通る人が気に入った作品に投票できるよう置かれた金色のシールの半分くらいが拙作に貼られていたこと、なのですからこれはもう自然なことと言えましょう(あぁそしてその川柳は当時流行っていたビックリマンシールの裏に書かれたキャプションのパロディだったのですが。当初から改変ネタかよ…)。
そんな「テキスト野郎」にとってのブログとは「様々なルールを自分自身で決定できる場」と認識しています。
「ブログ」「ブロガー」として単純に語られてはいるものの、geekpageあきみちさんが言われるように、どちらも一義ではなく様々な在り方取り組み方が存在します。
ゴリゴリした話題を高密度で論じるのもブログなら、自分の熱意と偏愛を全力でぶつけるのもブログ。日々の研究の成果を発表するのも、長大な自分語りが延々続くのもブログなら、広告収入目的で好きでもない商品を取り上げては褒め倒すのもブログ。経営者のブームだぜーと言って書き出したはいいが結局そのまま放置される社長ブログもブログはブログ。アメブロで5画面スクロールするけど書かれてる内容は1Tweet分しかないようなアレも……一応……ブログ。
様々なブログの在り方が存在する中で、自分の特性を、自分の知識に合った形で吐き出していくものが「ブログ」というものである、と思っています。

その中で「シロクマブロガー精神」は「熱い熱いテキスト野郎たちの言論コミュニティにおけるダンディズム」であると感じます。生き方をあえて自分で選びとり、厳しい自己規律の中で純度を高める、ハードボイルド的な生き様であると感じています。これは愛してやまないスタンスですし、そのモードを使うのも大好きです。
しかし、だからこそ狭い。

シロクマ基準で言うならば、俺は「ブロガー」を自認することはできません。俺にはその純度が致命的に足りない。その矜持にとどまっていることができない。
テキスト野郎ではあるものの、「ブログ」は文章を示すための一つの方法であり、広いインターネットの中で自分が参加きる様々な方法に対してオープンでいたい。「ブロガー」の矜持に殉じるよりも、「ネットワーカー」として様々な可能性を見ていたいし、「ネットワーカー」として「ブログ」にいろいろなものを持ち込んでいきたい。「こんなやり方もありか!」と感じさせたい。TwitterもNaverまとめも大好きだし、その上で、道具として随分もったいない状況になっている「ブログ」を今一度、というか今だからこそ使っていくべきだぞと伝えたいというのが、今この時点でのraf00のインターネットにおけるスタンスです。
また、ウォッチャーとしてあるいは純朴な一読者として、近頃のブログ界隈の熱量の足りなさを寂しく感じています。一読者・ネットワーカーとして「もっと多くの人が気軽にブログを楽しんでほしい」と感じています。それ以上に「面白いもん書ける奴がブログを書かなくなってしまったのは悲しい!もっと書いてよ!そんでブックマークしたりブログで言及したりできるようにしてよ!」と思っています。

その視点から見て、シロクマブロガー精神の熱さは「そうありたい」というよりも、「この熱量を持ち続けられるような環境作りをしなきゃならないな!北極からシロクマを絶滅させてはいけないな!」と感じられます。

シロクマエントリには「ブロガーはブログで繋がる」話がありました。
これ、すごくよくわかるんです。かつて日記猿人やテキストサイトでは、面白いテキスト野郎と繋がりたいと願うなら自らもサイトを立てて「サイト管理者」になる必要がありました。相手に「こいつおもしろいな」と思わせることで、相互リンクなりコミュニケーションが初めて生まれ、交流が可能になっていました。今よりも「サイト管理者」と「訪問者」という発信と受信の大きな隔たりのあった時代です。「訪問者」はコメント欄に何かを書くことはできましたが、決して対等な関係ではありません。ブログブームの頃も同様、ブロガーたちがキャッキャウフフする界隈に交ざりたければ、自らもブログでトラックバックの応酬に食い込んでいく必要がありました。ステキな情報を発信する人とコミュニケーションを望むために、自らも情報の発信者とならなければなりません。
インターネットという巨大な空間の中で、繋がりの範囲と方法が有限であった当時、「繋がりを求める」多くの人たちの気持ちは俺らテキスト野郎にとって、あるいは俺らテキスト読み大好きっ子にとって素晴らしい仕組みになっていました。
しかし時代は変わりました。多様な表現の場ができ、多様なコミュニケーション手段が生まれました。これまでのように実績を積まなくても気軽に発信者に繋がれるようになってしまいました。シロクマ野郎は「SNSごとき」という認識であるようですが、Twitterやfacebookはサイトの有無を問わず「面白い奴」同士を、情報をつなげ、サイト管理者と読者の垣根を払い、「繋がり」の欲求を満たしてしまっています。
これまでのように、「繋がりへの欲求」がまとまりのある一つのURLを生み出す機会は大きく減じ、フローの中に消えさえってしまうようになってしまいました。これはなんとももったいないことです。

また「ベテランばかり」の話。
(元々俺がTweetした「周りは既にベテランばかり」という話は、「ベテランばかりで怖い」という話では全くなく、ブログ運営論を既に語りきってしまったベテランが多く、ちょうどブログ運営論を語るようなフレッシュな中間層が少ないのでこういうノウハウとかテクニックについての話題が少なくなっているよね、という意図だったのですが、シロクマ野郎はブログ大戦略における世代論として受け取ったようですね。なんとも暑苦しいことです。なのでここではそれに乗ります)
シロクマさんは言います、『「周りは既にベテランばかり」というフレーズは、古参のネットユーザーなら聞き飽きていると思う』と。
そう、聞き飽きているんですよ、俺たちは。聞き飽きているほど聞いている我々自身がベテランなんですよ。
多くのベテランがいても物ともせず書かずにいられなかった、ベテランの屍を乗り越えて、幾多の他ブロガーの拳にも負けずに今も残っている俺たちが。
その俺らの持っているマッチョさ暑苦しさが、多くの人達をSNSに追いやったように感じられて仕方ありません。
彼らの多くが「ブロガーだけしか知りえない境地を希求」しないからこそ、増田で書く奴が増えてきたように感じられてなりません。
そしてだからこそ、はてなブログはトラックバックを「過去の遺物」としてなくしてしまったのだとも。
我々は「長文を書けること自体が喜ばしい人」なのですが、「他人をダシにして他人を文章でぶん殴ることに快感を覚える人」でもあります。そうでない人たちももちろん多く存在し長文を書く歓びを満たしたいがためにブログを書いているのに、我々はそういう人たちにも「ヒャッハー!」とハチェットを振り上げて襲いかかります。「ブロガーだけしか知りえない境地を希求する」ために無辜の人に殴りかかることも少なくありません。
シロクマブロガー精神のような高潔な魂は、古来日記サイトやテキストサイトでも語られてきたものです。非常に高潔ではあるのですが、この高潔さがちょいちょい口にされるようになると文化としてはちっと不安になります。いつか「ブロガー魂を持ってはいるが、拳をぶつけられる相手がいない」ことになってしまうだろう、と思うのです。

この辺りで既に何回も何回も書き直しては消し、書き直しては消しを繰り返して、いい加減どうエントリをまとめていけばいいのか完全にわからなくなったので(だから自分語りって嫌い!)、シロクマさんに言いたいこと。

Twitterでの他の話でも言っているけれど、「シロクマ先生のスタイル・自己規律は自分がネットワーカーとして生きるためのものであるから、何一つ否定される謂れはない。だからそのままでいい。そのスタンスは尊重すべきものでもあります」と改めてお伝えしたい。
で、シロクマ視点ではTwitterが大きく下の位置付けになっているようですが、この話題のように「長文のやり取り」のきっかけにTwitterがなることもあります。SNSでの繋がりがきっかけで改めてブログに向かう方向性だってなくはありません。現に俺がそうです。
純度の高いテキスト野郎としてブログ界隈の目線を持つことは大事でしょうが、「外」を見る時はもうちっと広くあるいは低い目線を持ってみても良いんじゃないでしょうか。
「長文を書く歓び」を持っている人たちはそれなりにいますがね、「ブログ」が「ブロガー」が皆高潔な魂を持っているかのように振る舞っちゃあならんですよ。「ブロガーは文章で殴りあうもの」として、他を下に見るようなことをしているのはいかんですよ。「みんなもっとブログを書いていくべきだよ!」という点では一致しますが、「ブログ戦闘打撃力」とかそういう話はとりあえずどうでもいいんですよ。そういうのは「ブロガーとしてではない外側のブクマ野郎たち」の視点で語っておけば良い、と思いますわ。

で。シロクマさん以外へ。
「シロクマブロガー精神」というブログ論が出て、ブログに対してさらにプレッシャーがかかった感はありますが。
2012年から2013年現在にかけて、Twitterは変化が少なく、フォロワーは滞留つつあった状況がさらに進み、血が濁っているように感じられます。「発信をすることで見知らぬ誰かと出会いたい」「発信をすることで何かを得たい」と思う人には厳しい状況と言えるでしょう。
一方で、Twitterが満たしてしまうからと脇に避けられたブログはキュレーションだなんだとTwitterでの拡散やまとめサイトなどが活性化したことでむしろ求められる方向に進んでいます。kanoseさんが以前言われたように「連続3tweetするならそのままブログに書いたほうがいい」と思っています。また前エントリでも紹介しましたが、カイ士伝などの古参ブログも「もっと短文で頻度高く更新していこう」という宣言をされているように、気軽なブログ更新が進みつつあります。このあたり、もっと気軽にブログを書こうよ!というエントリを書きたいと思っていますのでまた改めて。

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